御聖訓
令和8年(2026年)9月度 御報恩御講拝読御書
開目抄(かいもくしょう)
(文永九年二月 五十一歳御述作)
日蓮といゐし者は、去年(こぞ)九月十二日子丑(ねうし)の時に頸(くび)はねられぬ。此(これ)は魂魄(こんぱく)佐土(さど)の国にいたりて、返(かえ)る年の二月雪中(せっちゅう)にしるして、有縁(うえん)の弟子(でし)へをくれば、をそ(怖)ろしくてをそろ(恐怖)しからず。み(見)ん人、いかにをぢ(怖)ぬらむ。此は釈迦(しゃか)・多宝(たほう)・十方(じっぽう)の諸仏(しょぶつ)の未来(みらい)日本国(にほんごく)、当世(とうせい)をうつし給(たま)ふ明鏡(めいきょう)なり。かたみ(形身)ともみるべし。
(御書563頁10行目-12行目)
<通釈>
日蓮という者は、去年の九月十二日子丑の時に頸をはねられた。この抄は、日蓮の魂魄が佐渡の国に至り、翌年の二月に雪の降り積もる中で書き記して、有縁の弟子達へ送れば、(末法の法華経の行者が受ける難を)怖れるであろうが怖れるものではない。見る人は、さぞかし怖れを抱くだろう。これは釈迦・多宝・十方の諸仏が未来の日本国の当世を映した明鏡であり、(日蓮の)形見とも見るべきである。



































