御聖訓 令和7年6月度

四条金吾殿御返事(しじょうきんごどのごへんじ)
(建治三年四月 五十六歳御述作)

 賢人(けんじん)は八風(はっぷう)と申(もう)して八(や)つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり。をゝ心(むね)は利(うるおい)あるによろこばず、をとろうるになげかず等(とう)の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまぼ(守)らせ給(たま)ふなり。

(御書1117頁12行目-14行目)

<通釈>
 賢人とは八風といって八つの風におかされない人をいう。(その八風とは)利、衰、毀、誉、称、譏、苦、楽のことである。この主旨は、利があるときも喜ばない、また衰えたとしても嘆かない等のことをいう。この八風におかされない人を必ず諸天は守ってくださるのである。

御聖訓 令和7年5月度

椎地四郎殿御書(しいじしろうどのごしょ)
(弘安四年四月二十八日 六十歳御述作)

 法華経の法門を一文一句(いちもんいっく)なりとも人(ひと)にかたらんは過去の宿縁(しゅくえん)ふかしとおぼしめすべし。経に云(い)はく「亦(また)正法(しょうぼう)を聞かず是(か)くの如(ごと)き人は度(ど)し難(がた)し」云云。此の文(もん)の意(こころ)は正法とは法華経なり。此の経をきかざる人は度しがたしと云ふ文なり。法師品(ほっしほん)には「若是(にゃくぜ)善男子善女人(ぜんなんしぜんにょにん)乃至(ないし)即如来使(そくにょらいし)」と説(と)かせ給(たま)ひて、僧(そう)も俗(ぞく)も尼(あま)も女(おんな)も一句(いっく)をも人にかたらん人は如来の使(つか)ひと見(み)えたり。

(御書1555頁7行目-10行目)

<通釈>
 法華経の法門を一文一句でも人に語ることは、過去の宿縁が深いと思うべきである。法華経方便品には「正法を聞かない、このような人は済度し難い」と説かれている。この経文の意味は、正法とは法華経であり、この法華経を聞かない人は救うことが難しいという文である。法師品には「若是善男子善女人乃至則如来使」と説かれて、僧も俗も、尼も女性も、法華経の一句でも人に語る人は如来の使いであると示されている。

御聖訓 令和7年4月度

上野殿御返事(うえのどのごへんじ)
(弘安二年十一月六日 五十八歳御述作)

 願はくは我が弟子(でし)等、大願(だいがん)ををこせ。去年(こぞ)去々年(おととし)のやくびゃう(疫病)に死にし人々のかずにも入(い)らず、又(また)当時(とうじ)蒙古(もうこ)のせ(攻)めにまぬ(免)かるべしともみへず。とにかくに死は一定(いちじょう)なり。其の時のなげ(歎)きはたうじ(当時)のごとし。をなじくはかり(仮)にも法華経のゆへに命(いのち)をすてよ。つゆ(露)を大海(だいかい)にあつらへ、ちり(塵)を大地(だいち)にうづ(埋)むとをもへ。

(御書1428頁1行目-4行目)

<通釈>
 願わくは、我が弟子ら、大願を起こしなさい。去年一昨年の疫病で死んだ人々の数に入らなかったとしても、蒙古の襲来からは免れるとは思えない。とにかく死は定まっていることである。その時の歎きは(法難を受けている)今と同じである。ならば、かりそめにも法華経のために命を捨てなさい。露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものと思いなさい。

御聖訓 令和7年3月度

松野殿御返事(異称:十四誹謗抄)(まつのどのごへんじ)
建治二年十二月九日(五十五歳御述作)

 御文(おんふみ)に云(い)はく、此(こ)の経を持(たも)ち申して後(のち)、退転(たいてん)なく十如是(じゅうにょぜ)・自我偈(じがげ)を読み奉(たてまつ)り、題目を唱へ申し候(そうろう)なり。但し聖人(しょうにん)の唱へさせ給ふ題目の功徳(くどく)と、我等(われら)が唱へ申す題目の功徳と、何程(いかほど)の多少(たしょう)候べきやと云云。更(さら)に勝劣(しょうれつ)あるべからず候。其(そ)の故(ゆえ)は、愚者(ぐしゃ)の持(たも)ちたる金(こがね)も智者(ちしゃ)の持ちたる金も、愚者の燃(とも)せる火も智者の燃せる火も、其の差別(さべつ)なきなり。但し此の経の心に背(そむ)きて唱へば、其の差別有るべきなり。

(御書1046頁11行目-14行目)

御聖訓 令和7年2月度

寂日房御書(じゃくにちぼうごしょ)
弘安二年九月十六日(五十八歳御述作)

 経に云(い)はく「日月(にちがつ)の光明(こうみょう)の能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除(のぞ)くが如(ごと)く、斯(こ)の人(ひと)世間(せけん)に行(ぎょう)じて能く衆生(しゅじょう)の闇(やみ)を滅(めっ)す」と此(こ)の文(もん)の心よくよく案(あん)じさせ給(たま)へ。「斯人行世間(しにんぎょうせけん)」の五(いつ)つの文字(もんじ)は、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)末法(まっぽう)の始めの五百年に出現(しゅつげん)して、南無妙法蓮華経の五字(ごじ)の光明(こうみょう)をさ(指)しい(出)だして、無明煩悩(むみょうぼんのう)の闇(やみ)をてらすべしと云(い)ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使(おんつか)ひとして、日本国(にほんごく)の一切衆生(いっさいしゅじょう)に法華経をう(受)けたも(持)てと勧(すす)めしは是なり。

(御書1393頁13行目-1394頁1行目)

御聖訓 令和7年1月度

四条金吾殿御返事(しじょうきんごどのごへんじ)
文永九年五月二日(五十一歳御述作)

 貴辺(きへん)又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人(しょにん)にかたり給(たま)ふ。是(これ)豈(あに)流通(るつう)にあらずや。法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやす(休)みぬれば火をえず。強盛(ごうじょう)の大信力(だいしんりき)をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人(じょうげばんにん)、乃至(ないし)日本国(にほんごく)の一切衆生(いっさいしゅじょう)の口(くち)にうたはれ給へ。

(御書599頁2行目-4行目)