御聖訓
令和7年(2025年)11月度 御報恩御講拝読御書
兄弟抄(きょうだいしょう)
(建治二年四月 五十五歳御述作)
我(わ)が身(み)は過去に謗法(ほうぼう)の者なりける事疑(うたが)ひ給ふことなかれ。此(これ)を疑って現世(げんぜ)の軽苦(きょうく)忍(しの)びがたくて、慈父(じふ)のせ(責)めに随(したが)ひて存(ぞん)の外(ほか)に法華経をす(捨)つるよしあるならば、我が身地獄(じごく)に墜(お)つるのみならず、悲母(ひも)も慈父も大阿鼻地獄(だいあびじごく)に墜ちてともにかな(悲)しまん事疑ひなかるべし。大道心(だいどうしん)と申すはこれなり。各々(おのおの)随分(ずいぶん)に法華経を信ぜられつるゆへに、過去の重罪(じゅうざい)をせ(責)めいだし給ひて候(そうろう)。
(御書981頁15行目-982頁1行目)
<通釈>
我が身は過去世に謗法の者であったのだということを決して疑ってはならない。これを疑って、現世の軽い苦しみを堪え忍ぶことができずに、慈父の責めに随って意に反して法華経を捨てるようなことがあるならば、自分自身が地獄に墜ちるだけではなく、悲母も慈父も大阿鼻地獄に墜ちて共に悲しむことになるのは、疑いのないことである。大道心というのは、まさにこのことである。それぞれが大いに法華経を信じてきた故に、過去世の謗法の重罪を責め出して(今世に軽い苦しみとして受けて)いるのである。