御聖訓 令和4年 12月度

崇峻天皇御書(すしゅんてんのうごしょ)
建治三年九月十一日 (五十六歳御述作)

 人身(にんしん)は受けがたし、爪(つめ)の上の土。人身は持(たも)ちがたし、草の上の露(つゆ)。百二十まで持ちて名をくた(腐)して死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。中務三郎左衛門尉(なかつかささぶろうさえもんのじょう)は主(しゅ)の御(おん)ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよ(吉)かりけりよかりけりと、鎌倉の人々の口にうたはれ給(たま)へ。穴賢(あなかしこ)穴賢。蔵(くら)の財(たから)よりも身(み)の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此(こ)の御文(ごもん)を御覧(ごらん)あらんよりは心の財をつませ給ふべし。

(御書1173頁10行目-14行目)

御聖訓 令和4年 11月度

阿仏房尼御前御返事(あぶつぼうあまごぜんごへんじ)
建治元年九月三日 (五十四歳御述作)

 此(こ)の度(たび)大願(だいがん)を立て、後生(ごしょう)を願はせ給(たま)へ。少しも謗法不信(ほうぼうふしん)のとが(失)候(そうら)はゞ、無間大城(むけんだいじょう)疑ひなかるべし。譬(たと)へば海上(かいじょう)を船にのるに、船をろ(粗)そかにあらざれども、あか(水)入(い)りぬれば、必ず船中の人々一時(いちじ)に死するなり。なはて(畷)堅固(けんご)なれども、蟻(あり)の穴あれば必ず終(つい)に湛(たた)へたる水のたま(溜)らざるが如(ごと)し。謗法不信のあかをとり、信心(しんじん)のなはてをかた(固)むべきなり。浅き罪(つみ)ならば我よりゆるして功徳(くどく)を得(え)さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅(しょうめつ)さすべし。

(御書906頁13行目-16行目)

御聖訓 令和4年 10月度

撰時抄(せんじしょう)
建治元年六月十日 (五十四歳御述作)

 一渧(いってい)あつまりて大海となる。微塵(みじん)つもりて須弥山(しゅみせん)となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧一微塵のごとし。
 法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃(だいねはん)の大海ともなるべし。仏になる道は此(これ)よりほかに又もとむる事なかれ。

(御書868頁2行目-5行目)

御聖訓 令和4年 9月度

佐渡御勘気抄(さどごかんきしょう)
文永八年十月初旬 (五十歳)

 仏になる道は、必ず身命(しんみょう)をす(捨)つるほどの事ありてこそ、仏にはな(成)り候(そうろう)らめと、を(推)しはか(量)らる。既に経文(きょうもん)のごとく「悪口罵詈(あっくめり)」「刀杖瓦礫(とうじょうがりゃく)」「数々見擯出(さくさくけんひんずい)」と説(と)かれて、かゝるめに値(あ)ひ候こそ、法華経をよ(読)むにて候らめと、いよいよ信心もおこり、後生(ごしょう)もたの(頼)もしく候。

(御書482頁9行目-12行目)

御聖訓 令和4年 8月度

妙一尼御前御返事(みょういちあまごぜんごへんじ)
弘安三年五月十八日 (五十九歳)

 夫(それ)信心と申すは別にはこれなく候(そうろう)。妻(つま)のをとこ(夫)をおしむが如く、をとこの妻に命(いのち)をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母にはなれざるが如くに、法華経・釈迦・多宝・十方(じっぽう)の諸仏菩薩・諸天善神等に信(しん)を入れ奉(たてまつ)りて、南無妙法蓮華経と唱(とな)へたてまつるを信心とは申し候なり。しかのみならず「正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)、不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)」の経文を、女のかゞみ(鏡)をすてざるが如く、男の刀(かたな)をさすが如く、すこしもす(捨)つる心なく案じ給ふべく候。

(御書1467頁2行目-5行目)

御聖訓 令和4年 7月度

四条金吾殿御返事(しじょうきんごどのごへんじ)
文永十二年三月六日 五十四歳

 法華経の文(もん)に「難信難解(なんしんなんげ)」と説(と)き玉(たま)ふは是なり。此(こ)の経をき(聞)ゝう(受)くる人は多し。まことに聞き受くる如(ごと)くに大難(だいなん)来たれども「憶持不忘(おくじふもう)」の人は希(まれ)なるなり。受くるはやす(易)く、持(たも)つはかた(難)し。さる間(あいだ)成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難(なん)に値(あ)ふべしと心得(こころえ)て持つなり。「即為疾得無上仏道(そくいしっとくむじょうぶつどう)」は疑ひ無し。三世(さんぜ)の諸仏の大事(だいじ)たる南無妙法蓮華経を念ずるを持つとは云(い)ふなり。

(御書775頁12行目-15行目)

御聖訓 令和4年 6月度

祈禱抄(きとうしょう)
文永九年 五十一歳

大地(だいち)はさゝばはづるゝとも、虚空(こくう)をつなぐ者はありとも、潮(しお)のみ(満)ちひ(干)ぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸(もろもろ)の菩薩・人天(にんでん)・八部(はちぶ)等、二聖(にしょう)・二天(にてん)・十羅刹(じゅうらせつ)等、千(せん)に一(いち)も来たりてまぼ(守)り給はぬ事侍(はべ)らば、上(かみ)は釈迦諸仏(しゃかしょぶつ)をあなづり奉(たてまつ)り、下(しも)は九界(くかい)をたぼらかす失(とが)あり。行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳(かいとく)は備(そな)へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給ふべし。

(御書630頁7行目-11行目)

御聖訓 令和4年 5月度

善無畏三蔵抄(ぜんむいさんぞうしょう)
文永七年 四十九歳

 仮令(たとい)強言(ごうげん)なれども、人をたすくれば実語(じつご)・軟語(なんご)なるべし。設(たと)ひ軟語なれども、人を損(そん)ずるは妄語(もうご)・強言なり。当世(とうせい)学匠(がくしょう)等の法門(ほうもん)は、軟語・実語と人々は思(おぼ)し食(め)したれども皆強言・妄語なり。仏の本意(ほんい)たる法華経に背(そむ)く故(ゆえ)なるべし。日蓮が念仏申す者は無間地獄(むげんじごく)に墜(お)つべし、禅宗・真言宗も又(また)謬(あやま)りの宗(しゅう)なりなんど申し候(そうろう)は、強言とは思(おぼ)し食(め)すとも実語・軟語なるべし。

(御書445頁10行目-14行目)

御聖訓 令和4年 4月度

白米一俵御書(はくまいいっぴょうごしょ)
弘安三年 五十九歳

 南無(なむ)と申すは天竺(てんじく)のことばにて候(そうろう)。漢土(かんど)・日本には帰命(きみょう)と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉(たてまつ)ると申す事なり。我が身には分(ぶん)に随(したが)ひて妻子(さいし)・眷属(けんぞく)・所領(しょりょう)・金銀(きんぎん)等(とう)もてる人々もあり、また財(たから)なき人々もあり。財あるも財なきも命(いのち)と申す財にすぎて候(そうろう)財は候はず。さればいにしへ(古)の聖人(しょうにん)賢人(けんじん)と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。

(御書1544頁8行目-11行目)

御聖訓 令和4年 3月度

日厳尼御前御返事(にちごんあまごぜんごへんじ)
弘安三年十一月二十九日 五十九歳

 叶(かな)ひ叶はぬは御信心(ごしんじん)により候(そうろう)べし。全(まった)く日蓮がとが(咎)にあらず。水す(澄)めば月うつ(映)る、風ふけば木ゆ(揺)るぐごとく、みなの御心(みこころ)は水のごとし。信(しん)のよは(弱)きはにご(濁)るがごとし。信心のいさぎよ(潔)きはす(澄)めるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。

(御書1519頁15行目-1520頁3行目)

御聖訓 令和4年 2月度

土籠御書(つちろうごしょ)
文永八年十月九日 五十歳

 日蓮は明日佐渡国(さどのくに)へまか(罷)るなり。今夜(こよい)のさむ(寒)きに付けても、ろう(牢)のうちのありさま、思ひやられていた(痛)はしくこそ候(そうら)へ。あはれ殿は、法華経一部を色心二法(しきしんにほう)共にあそばしたる御身(おんみ)なれば、父母・六親(ろくしん)・一切衆生(いっさいしゅじょう)をもたす(助)け給(たま)ふべき御身なり。法華経を余人(よにん)のよ(読)み候(そうろう)は、口ばかりこと(言)ばばかりはよ(読)めども心はよ(読)まず、心はよ(読)めども身によ(読)まず、色心二法共にあそばされたるこそ貴(とうと)く候(そうら)へ。

(御書483頁6-9行目)

御聖訓 令和4年 1月度

経王殿御返事(きょうおうどのごへんじ)
文永十年八月十五日 五十二歳

 師子王(ししおう)は前三後一(ぜんさんごいち)と申(もう)して、あり(蟻)の子を取らんとするにも、又(また)たけ(猛)きものを取らんとする時も、いきを(勢)ひを出(い)だす事はたゞをな(同)じき事なり。日蓮守護(しゅご)たる処(ところ)の御本尊をしたゝめ参(まい)らせ候事(そうろうこと)も師子王にをとるべからず。経に云(い)はく「師子奮迅之力(ししふんじんしりき)」とは是(これ)なり。又此の曼荼羅(まんだら)能(よ)く能く信じさせ給(たま)ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼(ししく)の如し。いかなる病(やまい)さは(障)りをなすべきや。鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)、法華経の題目を持(たも)つものを守護すべしと見えたり。

(御書685頁6-9行目)