経王殿御返事(きょうおうどのごへんじ)
文永十年八月十五日(五十二歳御述作)
日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽(みょうらく)云(い)はく「顕本遠寿(けんぽんおんじゅ)を以て其の命(いのち)と為す」と釈(しゃく)し給ふ。経王御前(きょうおうごぜん)にはわざはひも転じて幸(さいわ)ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就(じょうじゅ)せざるべき。「充満其願(じゅうまんごがん)、如清涼池(にょしょうりょうち)」「現世安穏(げんぜあんのん)、後生善処(ごしょうぜんしょ)」疑ひなからん。
(御書685頁14行目-686頁1行目)
御聖訓 令和6年11月度
法華取要抄(ほっけしゅようしょう)
文永十一年五月二十四日(五十三歳御述作)
諸病(しょびょう)の中には法華経を謗(ぼう)ずるが第一の重病(じゅうびょう)なり。諸薬(しょやく)の中に南無妙法蓮華経は第一の良薬(ろうやく)なり。此(こ)の一閻浮提(いちえんぶだい)は縦広七千由善那八万(じゅうこうしちせんゆぜんなはちまん)の国之(これ)有り。正像(しょうぞう)二千年の間(あいだ)未(いま)だ広宣流布(こうせんるふ)せざる法華経を当世(とうせい)に当(あ)たって流布せしめずんば釈尊(しゃくそん)は大妄語(だいもうご)の仏、多宝仏(たほうぶつ)の証明(しょうみょう)は泡沫(ほうまつ)に同(おな)じく、十方分身(じっぽうふんじん)の仏の助舌(じょぜつ)も芭蕉(ばしょう)の如(ごと)くならん。
(御書735頁13行目-16行目)
御聖訓 令和6年10月度
妙法比丘尼御返事(みょうほうびくにごへんじ)
弘安元年九月六日(五十七歳御述作)
仏法(ぶっぽう)の中には仏(ほとけ)いまし(誡)めて云(い)はく、法華経のかたきを見て世(よ)をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏(しゃかぶつ)の御敵(おんかたき)、いかなる智人(ちにん)善人(ぜんにん)なりとも必(かなら)ず無間地獄(むけんじごく)に堕(お)つべし。譬(たと)へば父母(ふぼ)を人の殺さんとせんを子の身として父母にしらせず、王をあやま(過)ち奉(たてまつ)らんとする人のあらむを、臣下(しんか)の身として知りながら代(よ)をおそれて申さゞらんがごとしなんど禁(いまし)められて候(そうろう)。
(御書1262頁17行目-1263頁3行目)
御聖訓 令和6年9月度
四信五品抄(ししんごほんしょう)
建治三年四月初旬(五十六歳御述作)
濁水(じょくすい)心無けれども月を得て自(おのずか)ら清(す)めり。草木雨を得て豈(あに)覚(さと)り有って花さくならんや。妙法蓮華経の五字は経文に非(あら)ず、其の義に非ず、唯(ただ)一部の意(い)ならくのみ。初心の行者は其の心を知らざれども、而(しか)も之(これ)を行ずるに自然(じねん)に意に当(あ)たるなり。
(御書1114頁16行目-18行目)
御聖訓 令和6年8月度
上野殿御返事(うえのどのごへんじ)
弘安三年十二月二十七日(五十九歳御述作)
仏にやすやすとなる事の候(そうろう)ぞ、をしへまいらせ候はん。人のものををし(教)ふると申すは、車のおも(重)けれども油をぬりてまわり、ふね(船)を水にうかべてゆきやすきやうにをし(教)へ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃(かんばつ)にかわ(渇)けるものに水をあた(与)へ、寒氷(かんぴょう)にこゞ(凍)へたるものに火をあたふるがごとし。又、二つなき物を人にあたへ、命のた(絶)ゆるに人のせ(施)にあふがごとし。
(御書1528頁8行目-11行目)
御聖訓 令和6年7月度
妙密上人御消息(みょうみつしょうにんごしょうそく)
建治二年閏三月五日(五十五歳御述作)
已今(いこん)当(とう)の経文(きょうもん)を深くまぼ(守)り、一経(いっきょう)の肝心(かんじん)たる題目(だいもく)を我も唱(とな)へ人にも勧(すす)む。麻(あさ)の中の蓬(よもぎ)、墨(すみ)うてる木の自体(じたい)は正直(しょうじき)ならざれども、自然(じねん)に直(す)ぐなるが如(ごと)し。経のまゝに唱ふればまがれる心なし。当(まさ)に知るべし、仏の御心(みこころ)の我等(われら)が身(み)に入(い)らせ給(たま)はずば唱へがたきか。
(御書967頁12行目-14行目)
御聖訓 令和6年6月度
上野殿御返事(うえのどのごへんじ)
建治四年二月二十五日(五十七歳御述作)
抑(そもそも)今の時、法華経を信ずる人あり。或(あるい)は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞(ちょうもん)する時はも(燃)へた(立)つばかりをも(思)へども、とを(遠)ざかりぬればす(捨)つる心あり。水のごとくと申すはいつもたい(退)せず信ずるなり。此(これ)はいかなる時もつね(常)はたいせずと(訪)わせ給(たま)へば、水のごとく信ぜさせ給へるか。たうと(尊)したうとし。
(御書1206頁14行目-1207頁1行目)
御聖訓 令和6年5月度
妙心尼御前御返事(みょうしんあまごぜんごへんじ)
建治元年八月二十五日(五十四歳御述作)
このまんだら(曼荼羅)を身(み)にたもちぬれば、王(おう)を武士(ぶし)のまぼるがごとく、子(こ)ををや(親)のあい(愛)するがごとく、いを(魚)の水(みず)をたの(恃)むがごとく、草木(そうもく)のあめ(雨)をねが(楽)うがごとく、とり(鳥)の木(き)をたのむがごとく、一切(いっさい)の仏神(ぶつじん)等(とう)のあつまりまぼり、昼夜(ちゅうや)にかげのごとくまぼらせ給(たま)ふ法(ほう)にて候(そうろう)。よくよく御信用(ごしんよう)あるべし。
(御書903頁6行目-8行目)
御聖訓 令和6年4月度
諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)
弘安三年十二月(五十九歳御述作)
今日蓮は去(い)ぬる建長(けんちょう)五年癸丑四月廿八日より、今弘安(こうあん)三年庚辰太歳十二月にいたるまで二十八年が間(あいだ)又(また)他事(たじ)なし。只(ただ)妙法蓮華経の七字五字(しちじごじ)を日本国の一切衆生(いっさいしゅじょう)の口に入れんとはげむ計(ばか)りなり。此(これ)即(すなわ)ち母の赤子(あかご)の口に乳(ちち)を入れんとはげむ慈悲(じひ)なり。
(御書1539頁8行目-10行目)
御聖訓 令和6年3月度
阿仏房御書(あぶつぼうごしょ)
文永十二年三月十三日(五十四歳御述作)
末法(まっぽう)に入(い)って法華経を持(たも)つ男女(なんにょ)のすがたより外(ほか)には宝塔(ほうとう)なきなり。若(も)し然(しか)れば貴賤上下(きせんじょうげ)をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我(わ)が身宝塔にして、我が身又(また)多宝如来(たほうにょらい)なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人(しょうにん)の一身(いっしん)は地水火風空(ちすいかふうくう)の五大(ごだい)なり、此の五大は題目の五字なり。然(さ)れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外(ほか)の才覚(さいかく)無益(むやく)なり。聞(もん)・信(しん)・戒(かい)・定(じょう)・進(しん)・捨(しゃ)・慚(ざん)の七宝(しっぽう)を以(もっ)てかざりたる宝塔なり。
(御書792頁13行目-793頁2行目)
御聖訓 令和6年2月度
唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)
文応元年五月二十八日(三十九歳御述作)
末代(まつだい)には善(ぜん)無き者は多く善有る者は少なし。故(ゆえ)に悪道(あくどう)に堕(だ)せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強(し)ひて説き聞かせて毒鼓(どっく)の縁(えん)と成すべきか。然(しか)れば法華経を説いて謗縁(ぼうえん)を結ぶべき時節(じせつ)なる事諍(あらそ)ひ無き者をや。
(御書231頁9行目-11行目)