御聖訓 令和3年 12月度

報恩抄(ほうおんしょう)
建治二年七月二十一日 五十五歳

 仏法(ぶっぽう)に入(い)りて第一の大事なり。愚眼(ぐげん)をも(以)て経文(きょうもん)を見るには、法華経に勝(すぐ)れたる経ありといはん人は、設(たと)ひいかなる人なりとも謗法(ほうぼう)は免(まぬか)れじと見えて候(そうろう)。而(しか)るを経文のごとく申すならば、いかでか此(こ)の諸人仏敵(しょにんぶってき)たらざるべき。若(も)し又をそ(恐)れをなして指(さ)し申さずば、一切経(いっさいきょう)の勝劣(しょうれつ)空(むな)しかるべし。

(御書1003頁2-4行目)

御聖訓 令和3年 11月度

上野殿御返事(うえのどのごへんじ)
弘安元年四月一日 五十七歳

 今、末法(まっぽう)に入りぬれば余経(よきょう)も法華経(ほけきょう)もせん(詮)なし。但(ただ)南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出(い)だして候(そうろう)もわたくし(私)の計(はか)らひにはあらず。釈迦(しゃか)・多宝(たほう)・十方(じっぽう)の諸仏(しょぶつ)・地涌千界(じゆせんがい)の御(おん)計らひなり。此(こ)の南無妙法蓮華経に余事(よじ)をまじ(交)へば、ゆゝしきひが(僻)事(ごと)なり。日(ひ)出(い)でぬればとぼしび(灯)せん(詮)なし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児(みどりご)に乳(ちち)より外(ほか)のものをやしなうべきか。良薬(ろうやく)に又(また)薬を加へぬる事なし。此の女人(にょにん)はなにとなけれども、自然(じねん)に此の義にあたりてし(為)を(遂)ゝせぬるなり。たうと(尊)したうとし。

(御書1219頁6-10行目)

御聖訓 令和3年 10月度

聖人御難事
弘安二年十月一日 五十八歳

 清澄寺(せいちょうじ)と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午(うま)の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯(たいさいつちのとう)なり。仏は四十年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。

(御書1396頁2-5行)

御聖訓 令和3年 9月度

如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう)
文永十年五月 五十二歳

 法華折伏破権門理(ほっけしゃくぶくはごんもんり)の金言(きんげん)なれば、終(つい)に権教権門(ごんぎょうごんもん)の輩(やから)を一人(いちにん)もなくせ(攻)めを(落)として法王(ほうおうの)の家人(けにん)となし、天下万民(てんかばんみん)諸乗一仏乗(しょじょういちぶつじょう)と成(な)りて妙法独(ひと)りはむ(繁)昌(じょう)せん時、万民一同(ばんみんいちどう)に南無妙法蓮華経と唱(とな)へ奉(たてまつ)らば、吹く風(かぜ)枝(えだ)をならさず、雨(あめ)土(つち)くれをくだ(砕)かず、代(よ)はぎのう(義農)の世(よ)となりて、今生(こんじょう)には不詳(ふしょう)の災難(さいなん)を払(はら)ひて長生(ちょうせい)の術(じゅつ)を得(え)、人法(にんぽう)共(とも)に不老不死(ふろうふし)の理(ことわり)顕(あら)はれん時を各々(おのおの)御らん(覧)ぜよ、現世安穏(げんせあんのん)の証文(しょうもん)疑(うたが)ひ有るべからざる者なり。

(御書671頁6行目-10行目)

御聖訓 令和3年 8月度

法蓮抄(ほうれんしょう)
建治元年四月 五十四歳

 孝経(こうきょう)と申(もう)すに二(に)あり。一(いち)には外典(げでん)の孔子(こうし)と申せし聖人(せいじん)の書(しょ)に孝経あり。二には内典(ないでん)今(いま)の法華経(ほけきょう)是(これ)なり。内外(ないげ)異(こと)なれども其(そ)の意(い)は是同じ。釈尊(しゃくそん)塵点劫(じんでんごう)の間(あいだ)修行して仏(ほとけ)にならんとはげみしは何事(なにごと)ぞ、孝養(こうよう)の事(こと)なり。然(しか)るに六道四生(ろくどうししょう)の一切衆生(いっさいしゅじょう)は皆父母(ふぼ)なり。孝養おへざりしかば仏にならせ給(たま)はず。今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術(ひじゅつ)まします御経(おんきょう)なり。

(御書815頁4行目-8行目)

御聖訓 令和3年 7月度

上野殿後家尼御返事(うえのどのごけあまごへんじ)
文永二年七月十一日 四十四歳

 法華経(ほけきょう)の法門(ほうもん)をきくにつけて、なをなを信心(しんじん)をはげ(励)むをまこと(真)の道心者(どうしんしゃ)とは申(もう)すなり。天台(てんだい)云(い)はく「従藍而青(じゅうらんにしょう)」云云。此(こ)の釈(しゃく)の心はあい(藍)は葉のときよりも、なをそ(染)むればいよいよあを(青)し。法華経はあいのごとし。修行のふかきはいよいよあをきがごとし。

(御書337頁7行目-9行目)

御聖訓 令和3年 6月度

四条金吾殿御返事(しじょうきんごどの ごへんじ)
弘安二年十月二十三日 五十八歳

 いかに日蓮いのり申(もう)すとも、不信ならば、ぬ(濡)れたるほくち(火口)に火をう(打)ちか(掛)くるがごとくなるべし。はげみをなして強盛(ごうじょう)に信力(しんりき)をい(出)だし給(たま)ふべし。すぎし存命不思議(ぞんみょうふしぎ)とおもはせ給へ。なにの兵法(ひょうほう)よりも法華経の兵法をもち(用)ひ給ふべし。「諸余怨敵皆悉摧滅(しょよおんてきかいしつざいめつ)」の金言(きんげん)むなしかるべからず。兵法剣形(けんぎょう)の大事も此の妙法より出でたり。ふかく信心をとり給へ。あへて臆病(おくびょう)にては叶(かな)ふべからず候(そうろう)。

(御書1407頁14行目-1408頁2行目)

御聖訓 令和3年 5月度

妙心尼御前御返事(みょうしんあまごぜんごへんじ)
建治元年八月十六日  五十四歳

 浄名経(じょうみょうきょう)・涅槃経(ねはんぎょう)には病(やまい)ある人、仏になるべきよしとかれて候(そうろう)。病によりて道心(どうしん)はおこり候か。又(また)一切(いっさい)の病の中には五逆罪(ごぎゃくざい)と一闡提(いっせんだい)と謗法(ほうぼう)をこそ、おもき病とは仏はいた(傷)ませ給(たま)へ。今の日本国(にほんごく)の人は一人(いちにん)もなく極大重病(ごくだいじゅうびょう)あり、所謂(いわゆる)大謗法(だいほうぼう)の重病なり。

(御書900頁12行目-14行目)

御聖訓 令和3年 4月度

開目抄(かいもくしょう)
文永九年二月  五十一歳

 大願(だいがん)を立てん。日本国(にほんごく)の位(くらい)をゆづらむ、法華経(ほけきょう)をすてゝ観経(かんぎょう)等について後生(ごしょう)をご(期)せよ。父母の首を刎(は)ねん、念仏(ねんぶつ)申さずば、なんどの種々(しゅじゅ)の大難(だいなん)出来(しゅったい)すとも、智者(ちしゃ)に我が義(ぎ)やぶられずば用(もち)ひじとなり。其の外(ほか)の大難、風の前の塵(ちり)なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目(げんもく)とならむ、我日本の大船(だいせん)とならむ等とちかいし願(がん)やぶるべからず。

(御書572頁5行目~8行目)

御聖訓 令和3年 3月度

乙御前御消息(おとごぜんごしょうそく)
建治元年八月四日  五十四歳

 妙楽大師(みょうらくだいし)のたまはく「必ず心の固(かた)きに仮(よ)りて神の守り即(すなわ)ち強し」等云云。人の心かたければ、神のまぼ(守)り必ずつよしとこそ候(そうら)へ。是は御(おん)ために申すぞ。古(いにしえ)の御心(おんこころ)ざし申す計(ばか)りなし。其(そ)れよりも今一重(いまいちじゅう)強盛(ごうじょう)に御志(おんこころざし)あるべし。其の時は弥々(いよいよ)十羅刹女(じゅうらせつにょ)の御(おん)まぼ(守)りもつよかるべしとおぼすべし。例(ためし)には他(た)を引くべからず。

(御書:897頁四~六行目)

御聖訓 令和3年 2月

諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)
弘安三年十二月 五十九歳

 天竺国(てんじくこく)をば月氏国(がっしこく)と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国(ふそうこく)をば日本国(にほんごく)と申す、あに聖人(しょうにん)出(い)で給はざらむ。月は西より東に向かヘリ、月氏(がっし)の仏法、東へ流るべき相(そう)なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相(ずいそう)なり。月は光あきらかならず、在世(ざいせ)は但(ただ)八年なり。日は光明(こうみょう)月に勝(まさ)れり、五五百歳(ごごひゃくさい)の長き闇を照らすべき瑞相なり。

(御書 1543頁:13~15行目)

御聖訓 令和3年1月

十字御書(むしもちごしょ)
弘安四年一月五日 六十歳

 十字(むしもち)一百(いっぴゃく)まい・かし(菓子)ひとこ(一籠)給(た)び了(おわ)んぬ。正月の一日(いちじつ)は日のはじめ、月の始め、とし(年)のはじめ、春の始め。此れをもてなす人は月の西より東をさしてみ(満)つがごとく、日の東より西へわたりてあき(明)らかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあい(愛)せられ候(そうろう)なり。

(御書 一五五一頁 二行目~四行目)