御聖訓 令和2年(2020年)1月度~ 御報恩御講拝読御書

御聖訓 令和2年12月

新池御書(にいけごしょ)
弘安三年十二月 五十九歳

 皆人(みなひと)の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候(そうろう)が、中程(なかほど)は信心もよ(弱)はく、僧をも恭敬(くぎょう)せず、供養をもなさず、自慢して悪見(あっけん)をなす。これ恐(おそ)るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥(いよいよ)信心をいたすべし。さなくして後悔(こうかい)やあらんずらん。譬(たと)へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩(あゆ)みをはこびて、今(いま)一日に成りて歩みをさしをきては、何として都(みやこ)の月をば詠(なが)め候べき。

(御書 1457頁:4行目~7行目)

御聖訓 令和2年11月

衆生身心御書(しゅじょう しんしんごしょ)
弘安元年春 五十七歳

 ひへ(稗)のはん(飯)を辟支仏(びゃくしぶつ)に供養(くよう)せし人は普明如来(ふみょうにょらい)となる。つち(土)のもち(餅)ゐを仏に供養せしかば閻浮提(えんぶだい)の王となれり。設(たと)ひこう(功)をいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪(だいあく)とはなれども善(ぜん)とならず。設ひ心をろ(愚)かにすこし(少)きの物なれども、まことの人に供養すればこう(功)大(だい)なり。何(いか)に況(いわ)んや心ざしありてまことの法を供養せん人々をや。

(御書 1217頁:6行目~9行目)

御聖訓 令和2年10月

立正安国論(りっしょうあんこくろん)
(文応元年七月十六日,三十九歳)

 汝(なんじ)早く信仰(しんこう)の寸心(すんしん)を改(あらた)めて速(すみ)やかに実乗(じつじょう)の一善(いちぜん)に帰(き)せよ。然(しか)れば即(すなわ)ち三界(さんがい)は皆仏国なり、仏国其(そ)れ衰(おとろ)へんや。十方は悉(ことごと)く宝土(ほうど)なり、宝土何ぞ壊(やぶ)れんや。国に衰微(すいび)無く土(ど)に破壊(はえ)無くんば、身は是安全にして心は是禅定(ぜんじょう)ならん。此(こ)の詞(ことば)此の言(こと)信ずべく崇(あが)むべし。

(御書250頁)

御聖訓 令和2年9月

日女御前御返事

 此(こ)の御本尊も只(ただ)信心の二字にをさまれり。以信得入(いしんとくにゅう)とは是(これ)なり。日蓮が弟子檀那等(ら)「正直捨方便」「不受余経一偈」と無二に信ずる故によ(因)て、此の御本尊の宝塔の中へ入(い)るべきなり。たのもしたのもし。如何(いか)にも後生をたしなみ給ふべし、たしなみ給ふべし。穴賢(あなかしこ)。
 南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり。信心の厚薄(こうはく)によるべきなり。仏法の根本は信を以て源(みなもと)とす。

(御書1388頁)

御聖訓 令和2年8月

聖人御難事(しょうにんごなんじ)
(弘安二年十月一日、五十八歳)

罰(ばち)は総罰(そうばち)・別罰(べつばち)・顕罰(けんばち)・冥罰(みょうばち)四(よ)つ候(そうろう)。日本国(にほんごく)の大疫病(だいやくびょう)と大(だい)けかち(飢渇)とどしう(同士討)ちと他国よりせめらるゝは総ばち(罰)なり。やくびゃう(疫病)は冥罰なり。大田等(とう)は現罰(げんばち)なり、別ばち(罰)なり。各々師子王(ししおう)の心を取り出(い)だして、いかに人をど(嚇)すともを(怖)づる事なかれ。師子王は百獣にを(怖)ぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野干(やかん)のほ(吠)うるなり、日蓮が一門は師子の吼(ほ)ゆるなり。

(御書1397頁6行目~9行目)

御聖訓 令和2年7月

曾谷殿御返事(そやどのごへんじ)
(建治二年八月二日 五十五歳)

謗法(ほうぼう)を責(せ)めずして成仏(じょうぶつ)を願(ねが)はゞ、火(ひ)の中(なか)に水(みず)を求(もと)め、水の中に火を尋(たず)ぬるが如(ごと)くなるべし。はかなしはかなし。何(いか)に法華経(ほけきょう)を信(しん)じ給(たま)ふとも、謗法あらば必(かなら)ず地獄(じごく)にを(堕)つべし。うるし(漆)千ばい(杯)に蟹(かに)の足(あし)一つ入(い)れたらんが如し。「毒気深入(どっけじんにゅう)、失本心故(しっぽんしんこ)」とは是(これ)なり。
(御書1040頁2行目~5行目)

御聖訓 令和2年6月

立正安国論(りっしょうあんこくろん)
(文応元年七月十六日 三十九歳)

倩(つらつら)微管(びかん)を傾(かたむ)け聊(いささか)経文(きょうもん)を披(ひら)きたるに、世(よ)皆(みな)正(しょう)に背(そむ)き人(ひと)悉(ことごと)く悪(あく)に帰(き)す。故(ゆえ)に善神(ぜんじん)国(くに)を捨(す)てゝ相(あい)去(さ)り、聖人(しょうにん)所(ところ)を辞(じ)して還(かえ)らず。是(ここ)を以(もっ)て魔(ま)来(き)たり鬼(き)来たり、災(さい)起(お)こり難(なん)起こる。言(い)はずんばあるべからず。恐(おそ)れずんばあるべからず。
(御書234頁14行目~16行目)

御聖訓 令和2年5月

如説修行抄

末法の始めの五百歳には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此(こ)の時は闘諍堅固(とうじょうけんご)・白法隠没(おんもつ)の時と定めて権実(ごんじつ)雑乱の砌(みぎり)なり。敵(かたき)有る時は刀杖弓箭(とうじょうきゅうせん)を持(たも)つべし、敵無き時は弓箭兵杖(ひょうじょう)なにかせん。今の時は権教即実教の敵と成る。一乗流布の代(よ)の時は権教有って敵となる。まぎ(紛)らはしくば実教より之を責むべし。是(これ)を摂折(しょうしゃく)の修行の中には法華折伏と申すなり。

(御書672頁)

御聖訓 令和2年4月

三大秘法稟承事(さんだいひほうぼんじょうのこと)

題目(だいもく)とは二意(にい)有り。所謂(いわゆる)正像(しょうぞう)と末法(まっぽう)となり。正法(しょうぼう)には天親(てんじん)菩薩・竜樹(りゅうじゅ)菩薩、題目を唱(とな)へさせ給(たま)ひしかども、自行計(ばか)りにして唱へてさて止(や)みぬ。像法(ぞうぼう)には南岳(なんがく)・天台(てんだい)等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他(けた)の為に説かず。是(これ)理行(りぎょう)の題目なり。末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり。

(御書1594頁16行目~1595頁1行目)

御聖訓 令和2年3月

新池(にいけ)御書

雪山(せっせん)の寒苦鳥(かんくちょう)は寒苦にせ(責)められて、夜明けなば栖(す)つくらんと鳴くといへども、日(ひ)出(い)でぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、又栖(す)をつくらずして一生虚(むな)しく鳴くことをう(得)。一切衆生も亦復(またまた)是(か)くの如し。地獄に堕(お)ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣(さしお)いて三宝を供養し、後世菩提(こうせいぼだい)をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利(みょうもんみょうり)の風はげしく仏道修行の灯(ともしび)は消えやすし。
   
(御書1457頁)

御聖訓 令和2年2月

日女御前御返事

黄河(こうが)は千年に一度す(澄)むといへり。聖人(しょうにん)は千年に一度出(い)づるなり。仏は無量劫に一度出生し給(たも)ふ。彼(か)には値(あ)ふといへども法華経には値(あ)ひがたし。設(たと)ひ法華経に値(あ)ひ奉るとも、末代の凡夫(ぼんぷ)法華経の行者には値(あ)ひがたし。

(御書1232頁)

御聖訓 令和2年1月~

最蓮房御返事(さいれんぼう ごへんじ)

 法華経の行者は信心に退転無(な)く身に詐親(さしん)無く、一切法華経に其(そ)の身を任(まか)せて金言(きんげん)の如く修行せば、慥(たし)かに後生(ごしょう)は申すに及ばず、今生(こんじょう)も息災延命(そくさいえんめい)にして勝妙の大果報を得(え)、広宣流布の大願をも成就すべきなり。

(御書642頁)

 法華経の行者は、信心を退転することなく、身に詐(いつわ)り親しむことなくその身を一切法華経に任せて、仏説の如く修行するならば、確かに後生は言うまでもなく、今生も息災延命にして、勝妙の大果報を得て、広宣流布の大願をも成就することができるのである

*法華経の行者:法華経の経説に従って修行する者で、総じて三大秘法の南無妙法蓮華経を信受実践する本宗僧俗であり、別しては宗祖日蓮大聖人のことで、末法の御本仏の異名。
*退転:仏道修行を止めること。又は修行を怠り前進の姿勢が無い状態。
*詐身:詐(いつわ)ること。外面だけ敬い親しむふりをして、相手を欺く姿。
*金言:仏の金口から出た不滅の言葉の意。仏の説法をいう。
*息災延命:災いを息(とど)めて寿命を延ばすこと。
*勝妙の大果報:円満にして勝れた功徳で、成仏の境界をいう。