御聖訓 令和7年3月度

松野殿御返事(異称:十四誹謗抄)(まつのどのごへんじ)
建治二年十二月九日(五十五歳御述作)

 御文(おんふみ)に云(い)はく、此(こ)の経を持(たも)ち申して後(のち)、退転(たいてん)なく十如是(じゅうにょぜ)・自我偈(じがげ)を読み奉(たてまつ)り、題目を唱へ申し候(そうろう)なり。但し聖人(しょうにん)の唱へさせ給ふ題目の功徳(くどく)と、我等(われら)が唱へ申す題目の功徳と、何程(いかほど)の多少(たしょう)候べきやと云云。更(さら)に勝劣(しょうれつ)あるべからず候。其(そ)の故(ゆえ)は、愚者(ぐしゃ)の持(たも)ちたる金(こがね)も智者(ちしゃ)の持ちたる金も、愚者の燃(とも)せる火も智者の燃せる火も、其の差別(さべつ)なきなり。但し此の経の心に背(そむ)きて唱へば、其の差別有るべきなり。

(御書1046頁11行目-14行目)

御聖訓 令和7年2月度

寂日房御書(じゃくにちぼうごしょ)
弘安二年九月十六日(五十八歳御述作)

 経に云(い)はく「日月(にちがつ)の光明(こうみょう)の能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除(のぞ)くが如(ごと)く、斯(こ)の人(ひと)世間(せけん)に行(ぎょう)じて能く衆生(しゅじょう)の闇(やみ)を滅(めっ)す」と此(こ)の文(もん)の心よくよく案(あん)じさせ給(たま)へ。「斯人行世間(しにんぎょうせけん)」の五(いつ)つの文字(もんじ)は、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)末法(まっぽう)の始めの五百年に出現(しゅつげん)して、南無妙法蓮華経の五字(ごじ)の光明(こうみょう)をさ(指)しい(出)だして、無明煩悩(むみょうぼんのう)の闇(やみ)をてらすべしと云(い)ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使(おんつか)ひとして、日本国(にほんごく)の一切衆生(いっさいしゅじょう)に法華経をう(受)けたも(持)てと勧(すす)めしは是なり。

(御書1393頁13行目-1394頁1行目)

御聖訓 令和7年1月度

四条金吾殿御返事(しじょうきんごどのごへんじ)
文永九年五月二日(五十一歳御述作)

 貴辺(きへん)又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人(しょにん)にかたり給(たま)ふ。是(これ)豈(あに)流通(るつう)にあらずや。法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやす(休)みぬれば火をえず。強盛(ごうじょう)の大信力(だいしんりき)をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人(じょうげばんにん)、乃至(ないし)日本国(にほんごく)の一切衆生(いっさいしゅじょう)の口(くち)にうたはれ給へ。

(御書599頁2行目-4行目)