横浜 應顕寺史-1
慈含山 応顕寺
創立 昭和58年12月26日
1. 應顕寺前身の神奈川教会所
明治35(1902)年に、第56世御法主日應上人のご化縁により、高津たき氏は久遠山常泉寺(東京墨田区)で日蓮正宗に入信しました。
その後東神奈川に居を移して旅館経営を行うかたわら正法弘通に励み、同氏は東神奈川正宗会を独力で設立しました。
大正5(1916)年頃より経営する旅館を使用して、日應上人の御来臨、或は日蓮正宗僧侶による布教講演会を毎月開催し、教会所の落成まで続けました。
大正8(1919)年、発展する横浜に教会所を建立する為に、同氏は神奈川区鳥越に土地を求め、翌9(1920)年春には着工に至りました。
大正10(1921)年3月、宗祖日蓮大聖人御誕生七百年の記念報恩を兼ねて、日應上人大導師のもとに神奈川教会所として落成入仏式が奉修されました。以後、日應上人は、同教会所を本陣とし正法弘通の為に京浜地方をはじめとして、その他各地に法輪を転じられました。
翌11(1922)年6月14日、3日前に高照山妙光寺(東京品川区)で開催の宗門行事にて御講演なされた日應上人は御伏臥、遺弟法類等の唱題の中に翌15日未明、当神奈川教会所において御歳75歳をもって安祥として御遷化されました。
日應上人御遷化の後11月中旬、堀米泰栄師(後に第65世御法主日淳上人)が神奈川教会所に着任、翌12(1923)年6月第2代として担当教師に就任されました。
同年9月1日、同教会所は、関東大震災に因る類焼は免れましたが、表玄関の倒壊及び屋根,壁に破損を蒙りました。
同年12月、小川慈大師が第3代担当教師に就任しました。
昭和5(1930)年に、第4代に交代し舟橋泰道師が神奈川教会所留守居役として着任しました。
創立以来、教会所の信徒数は着実に増加したが遺骨埋葬の場所がない為、設立者の高津氏はじめ主たる教会所信徒と協議の上、留守居役の承認を得て宗祖日蓮大聖人第六百五十回御遠忌の記念事業として、横浜市三ツ沢共葬墓地の一部を購入し、昭和9(1934)年9月に納骨塔を建立しました。
同年11月、大東院日明上人(柿沼広澄師)が第5代に着任しました。
昭和14(1939)年7月、野木慈隆師(磐城阿闍梨日建贈上人)が第6代に着任しました。
昭和17(1942)年10月に、神奈川教会所法華講浄心講支部が宗務院により認可されました。
昭和20(1945)年5月、米軍の横浜空襲により、横浜市街の大部分が焦土と化し、神奈川教会所及び横浜教会所が焼失しました。
その後、神奈川教会所の法華講信徒は再興された横浜教会所に参詣して講活動を続けました。
翌21(1946)年4月、磐城阿闍梨日建贈上人が遷化され、同年5月横浜教会所主管の市川真道師が兼務のまま、神奈川教会所の第7代として主管に任ぜられました。
神奈川教会所としての建物は再建されないまま、昭和22年12月、主管と信徒代表により神奈川教会所の解散届と横浜教会所に合併を宗務院に提出し受理され、神奈川教会所は26年の歴史を閉じました。
その後東神奈川に居を移して旅館経営を行うかたわら正法弘通に励み、同氏は東神奈川正宗会を独力で設立しました。
大正5(1916)年頃より経営する旅館を使用して、日應上人の御来臨、或は日蓮正宗僧侶による布教講演会を毎月開催し、教会所の落成まで続けました。
大正8(1919)年、発展する横浜に教会所を建立する為に、同氏は神奈川区鳥越に土地を求め、翌9(1920)年春には着工に至りました。
大正10(1921)年3月、宗祖日蓮大聖人御誕生七百年の記念報恩を兼ねて、日應上人大導師のもとに神奈川教会所として落成入仏式が奉修されました。以後、日應上人は、同教会所を本陣とし正法弘通の為に京浜地方をはじめとして、その他各地に法輪を転じられました。
翌11(1922)年6月14日、3日前に高照山妙光寺(東京品川区)で開催の宗門行事にて御講演なされた日應上人は御伏臥、遺弟法類等の唱題の中に翌15日未明、当神奈川教会所において御歳75歳をもって安祥として御遷化されました。
日應上人御遷化の後11月中旬、堀米泰栄師(後に第65世御法主日淳上人)が神奈川教会所に着任、翌12(1923)年6月第2代として担当教師に就任されました。
同年9月1日、同教会所は、関東大震災に因る類焼は免れましたが、表玄関の倒壊及び屋根,壁に破損を蒙りました。
同年12月、小川慈大師が第3代担当教師に就任しました。
昭和5(1930)年に、第4代に交代し舟橋泰道師が神奈川教会所留守居役として着任しました。
創立以来、教会所の信徒数は着実に増加したが遺骨埋葬の場所がない為、設立者の高津氏はじめ主たる教会所信徒と協議の上、留守居役の承認を得て宗祖日蓮大聖人第六百五十回御遠忌の記念事業として、横浜市三ツ沢共葬墓地の一部を購入し、昭和9(1934)年9月に納骨塔を建立しました。
同年11月、大東院日明上人(柿沼広澄師)が第5代に着任しました。
昭和14(1939)年7月、野木慈隆師(磐城阿闍梨日建贈上人)が第6代に着任しました。
昭和17(1942)年10月に、神奈川教会所法華講浄心講支部が宗務院により認可されました。
昭和20(1945)年5月、米軍の横浜空襲により、横浜市街の大部分が焦土と化し、神奈川教会所及び横浜教会所が焼失しました。
その後、神奈川教会所の法華講信徒は再興された横浜教会所に参詣して講活動を続けました。
翌21(1946)年4月、磐城阿闍梨日建贈上人が遷化され、同年5月横浜教会所主管の市川真道師が兼務のまま、神奈川教会所の第7代として主管に任ぜられました。
神奈川教会所としての建物は再建されないまま、昭和22年12月、主管と信徒代表により神奈川教会所の解散届と横浜教会所に合併を宗務院に提出し受理され、神奈川教会所は26年の歴史を閉じました。