<通釈>
くれぐれも強盛の大信力を起こして南無妙法蓮華経臨終正念と祈念しなさい。生死一大事の血脈は、これより外にまったく求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とはこのことである。信心の血脈がなければ、法華経を受持しても無益である。
御聖訓 令和8年3月度
阿仏房尼御前御返事(あぶつぼうあまごぜんごへんじ)
(建治元年九月三日、五十四歳御述作)
法華経を持(たも)ち信ずれども、誠(まこと)に色心相応(しきしんそうおう)の信者、能持此経(のうじしきょう)の行者はまれなり。此等(これら)の人は介爾(けに)ばかりの謗法(ほうぼう)はあれども、深重(じんじゅう)の罪(つみ)を受くる事はなし。信心はつよく、謗法はよはき故(ゆえ)なり。大水(だいすい)を以(もっ)て小火(しょうか)をけ(消)すが如(ごと)し。
(御書905頁10行目-11行目)
<通釈>
法華経を持ち信じていても、誠に色心相応の信者、能持此経の行者はまれである。これらの人々はわずかな謗法があっても深重の罪を受けることはない。信ずる心は強く、謗法は弱いゆえである。譬えば大水をもって小火を消すようなものである
御聖訓 令和8年2月度
弁殿尼御前御書(べんどのあまごぜんごしょ)
(文永十年九月十九日、五十二歳御述作)
第六天(だいろくてん)の魔王(まおう)、十軍(じゅうぐん)のいくさをを(起)こして、法華経の行者(ぎょうじゃ)と生死海(しょうじかい)の海中(かいちゅう)にして、同居穢土(どうごえど)をと(取)られじ、うば(奪)はんとあらそう。日蓮其(そ)の身にあひあ(当)たりて、大兵(だいひょう)をを(起)こして二十余年(にじゅうよねん)なり。日蓮一度もしり(退)ぞく心なし。しかりといえども弟子(でし)等・檀那(だんな)等の中に臆病(おくびょう)のもの、大体(だいたい)或(あるい)はを(堕)ち、或は退転(たいてん)の心あり。尼ごぜんの一文不通(いちもんふつう)の小心(しょうしん)に、いまゝでしり(退)ぞかせ給はぬ事申すばかりなし。
(御書686頁8行目-11行目)
<通釈>
第六天の魔王は、十種の魔軍を起こして、法華経の行者と生死海の海中にあって、凡聖同居の穢土をとられまい、奪おうと争っている。日蓮は法華経の行者として、大兵を起こして戦うこと二十余年である。日蓮は一度も退く心はない。しかし弟子等・檀那等の中で臆病の者は、大方ある者は退き、ある者は退転の心がある。尼御前が一文不通の心弱い身でありながら、今まで退転しなかったことは、言い尽くせないほど立派である。
御聖訓 令和8年 1月度
生死一大事血脈抄(しょうじいちだいじけちみゃくしょう)
(文永九年二月十一日 五十一歳御述作)
相構(あいかま)へ相構へて強盛(ごうじょう)の大信力(だいしんりき)を致(いた)して、南無妙法蓮華経臨終正念(りんじゅうしょうねん)と祈念(きねん)し給(たま)へ。生死一大事(しょうじいちだいじ)の血脈(けちみゃく)此(これ)より外(ほか)に全(まった)く求むることなかれ。煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)・生死即涅槃(しょうじそくねはん)とは是(これ)なり。信心(しんじん)の血脈なくんば法華経を持(たも)つとも無益(むやく)なり。
(御書515頁1行目-3行目)